コーヒーの時間

なみなみと注がれたコーヒーカップを持って席について、しばらく友人と話し込んでいると、グラグラと大きな揺れが来て、近くにあった花瓶が床に落ちて割れて、お店にいる人、働いている人、みんな一斉に外に出た。一方通行の片側一車線の道路は人でごった返していた。普段は人気のない裏通りなのに、随分人がいるものだなあと、目にした光景は今でも鮮明に覚えている。

 

3・11の震災があった時、僕は渋谷にいた。翌日になってから、母が一人で暮らす水戸の実家まで渋滞する道を半日くらいかけて戻ると、電気は復旧していたけれど、水道とガスは止まったまま、しかし母はいつも通り夕食を作ってくれて、食後に当たり前のようにコーヒーを淹れてくれた。水や食材のストックがあればこそ、備えあれば憂いなしの手本のようだった。コーヒーを飲んだらやっと緊張が解れた感じがした。翌日、ガスも復旧して、色々と現実的な事を考え始めた時、僕は手先を動かして何かに集中したくなって、家にあった材料でシフォンケーキを焼いた。せっかくだからと地元の友人夫婦を招いて、余震が続く中、コーヒーとたっぷりホイップを添えたシフォンケーキを楽しんだ。うららかな天気と相まって「要ちゃん家だけ、地震が来ていないみたいだね」と友人が言った事を覚えている。大きい余震が来ても、嫌なニュースが流れても、部屋にコーヒーの香りがしているそのひと時、それぞれが抱えている不安の中に、ちょっとした安らぎと小さな希望を見出せた感じがした。一杯のコーヒーがもたらした情景は、僕の胸に今もしっかりと刻まれている。

 

今も、この原稿を書きながらコーヒーを飲んでいる。朝起きてから、お湯を沸かしている間に豆を挽き、ペーパードリップでたっぷりコーヒーを淹れるのは、僕の長年の習慣。午前中に少し冷めたコーヒーをチビチビ飲みながら仕事をするのが、一番集中する事が出来る大切な時間。美味しく淹れられたらもちろん嬉しい、しかし丁寧に淹れたつもりがいまひとつ美味しくない、宅急便を受け取っている間にすっかり気の抜けた味に…毎日の事だから当然色々ある。日々のコーヒーの営みは、その日の気分やコンディションを映し出す鏡のようであり、それも含んだ味わいを楽しんでいる。

 

こうして今、そして過去の情景をふりかえってみると、嗜みの少ない僕にとって、コーヒーは様々な時を共に過ごしてきた長年の友といった趣がある。

 

それは、これからもずっと、ずっと。