朝の風景
私のコーヒーの原風景は、田舎の実家の台所にある。よくある日本家屋の平家の実家は東向きに建っていて、朝の短い時間だけ、台所に面した窓から眩しい日差しが入ってきた。朝食はだいたい家族揃って、母と祖母が作ったものを食べる。兼業農家だったので、米と野菜には事欠かないこともあり、平日はほとんど和食。6時に炊き上がるように一升炊きのガス炊飯器がセットされ、毎朝炊き立てのご飯が食卓に上がる。それにいりこ出汁から取った味噌汁と、お弁当のおかずの残りやら、タッパーに入った手作りの漬物など。まだ生きていたおじいちゃんや、現役で働いていた父は、身支度を整えて座るだけ。そういう時代。なんの疑いもなく、私も一緒になってそこに座っている。
まだまだ元気だった母と祖母が朝にバタバタしている姿を見るのは好きだった。学校や仕事へ行く人間に先に食べさせ、自分がゆっくり食卓につくのは一番最後。大人になった私も、子供達や友人と食事を囲む時、結局あの時の母のように自分のことは後回しになっている。そこで気づいたこともある。あれは愛情と呼ばれるものだったのかなと。
AMラジオが時計代わりで、いつものコーナーが始まったら食べ始めないと間に合わない。それでも私がのんびりと朝食をとっていると、今度は食べ終わった父がバタバタと動き出す。うちにはコーヒーメーカーがあり、それはもっぱら父専用のものだった。スーパーで売っている、開けるまでは硬いスポンジのような真空パックのもの。はさみで封を開けると、止まっていた時が動き出すみたいに、挽かれた豆が滑らかにすべり出す。そこから豆と水を一人分セットする。しばらくして、コーヒーメーカーからはいろんな音がし始める。カタカタ、コポコポ、プシュー。朝の光と、温かい音と、苦くて香ばしい匂いがありありと思い出せる。さすがに自分しか飲まないコーヒーを、母に用意してもらうことなかったんだな、と気づくのと同時に、あの一連の動作が、父にとっては仕事へ行くためのスイッチにもなっていたのかもしれない、とも思う。今の私にも同じようなタイミングがあるからだ。
登校するための最寄り駅までは、出勤する父の車に乗せてもらうため、そのコーヒーが飲み干されるまでに、私は全ての準備を整えていなければいけない。なのに私の頭はぼんやりとしていて、眩しい光の中、元気だった頃の家族を眺めている。