うつろうデザインと不滅のコーヒー
「新たな装飾をつくりだすことができない我々の文化、このことが我々の文化の偉大さを意味する。人間の進化とは、日常使用する日用品から装飾を除くことと同義である」(アドルフ・ロース「住居の見学会」
オーストリアの建築家、アドルフ・ロースは極端なまでに装飾を嫌い、その建築物のみならず、明快な論理に基づく多くのテキストにより近代建築の基礎を築いた。建築物や工芸品に施された装飾を、未開人の刺青に重ね合わせ徹底的に攻撃した「装飾と犯罪」という論考が発表されたのが一九〇八年。ドイツでバウハウスが設立されたのが一九一九年、柳宗悦らによって「日本民藝館設立趣意書」の発表が一九二六年であることを考えると、後の工芸、デザイン運動に与えた影響は少なくはなかっただろう。
そのロースが、一九世紀末のウィーンで設計した初期の代表作が「カフェ・ムゼウム」だ。彼の主張通りできる限り装飾を排したシンプルな内装は、当初「カフェ・ニヒリズム」などと揶揄する者もいたそうだが、同時代にモダニズムを標榜したオットー・ワーグナーをはじめ、クリムトやエゴン・シーレら画家も常連となり、ある種のサロン的役割を担う場となった。しかしこの「カフェ・ムゼウム」はロース亡きあと数奇な運命を辿ることになる。
まずロースの晩年、一九三〇年にその内装が他の建築家の手によって造り変えられてしまう。どのような経緯があったのかは定かではないが、よりによって改装を手がけたのはロースが幾度となく批判し続けたヨーゼフ・ホフマンの教え子、ヨーゼフ・ゾッティだった。以前とはガラリと趣を変えた、赤い半円型のソファが並ぶ温かみのある店内は、ロースの没後も長らく愛され続け、ムゼウムのイメージはゾッティによるものとなる。
改装から七〇年の時を経た二〇〇三年、再びムゼウムは全面改装される。そこで復活したのがロースによる創業当時の内装だ。しかし、この再改装は二十一世紀のウィーン市民たちからは不評を買い、その数年後には閉店にまで追い込まれてしまう。その後まもなく、この文化遺産を守るべくある夫婦がムゼウムを購入し、営業を再開する。その際になされた改装は再びゾッティのプランを基にしたという。
モダニズムとポストモダン、装飾と機能主義。そのはざまに揺れ動きながら一世紀を生き延びてきたカフェ。現代を生きる我々がその足跡を振り返って痛感するのは時代や流行の移ろいやすさである。カフェブーム、レトロ喫茶、スペシャルティにサードウェーブと、昨今のカフェも日々移ろいを続けるが、「カフェ・ムゼウム」では今もなお、当時クリムトたちが愛したメニューを口にすることができるという。変わらないのは、コーヒーそのものの存在価値と、それを手に世間話や政談にふける人々の営みだけだ。