「カフェ・アンビエント」
いつの頃からか、カフェのBGMが変わったように思う。本を読みに立ち寄った某有名カフェチェーンで、LPもリリースしていなかったようなマイナーなネオ・アコースティックバンドのシングルや、Discogsで調べると数百ドルもするブラジリアン・ジャズのレア盤が流れていて驚くことがある。めったに使わないSHAZAMを起動するのは、気の利いた個人店よりも、どこにでもあるチェーン店がほとんどだ。なんでもないカフェでよくかかっていたったはずの「J-POPのボサ・ノヴァカバー」が、もはやどこへ行っても耳にすることができなくなってしまった。「唄う女」も廃業寸前である。
聴いた話によると、有名DJが選曲する有線チャンネルというものがあって、それを流しているのだという。気の利いたBGMというのも耳につくもので、かえって気が散ってしまい読書がはかどらない。そもそも普段足を運ぶ喫茶店でどんな音楽が流れていたのかを思い出してみる。
毎週一度モーニングをしに通う店がある。毎朝八時開店、毎週発売日の朝にきっちりと週刊誌が並び、サンドイッチとコーヒーのモーニングがワンコイン。コーヒーカップを空にして長居していると、熱いお茶まで出してくれる。親切なのか、ぶっきらぼうなのか捉えかねる、付かず離れずの接客。昼は洋食のランチを出していてそれなりに混み合う店だ。「週プレ」や「文春」をゆっくり開き、飛ばし読みするその背景にうっすら流れているのはいつも同じ曲。ギターの独奏曲と、ストリングスとピアノによる味気のないイージーリスニング、あわせてたった二曲が繰り返し流れ続けている。ふと思い立ち、この原稿のためにと、その店でSHAZAMを起動してみた。数秒の沈黙の後、表示されたのは流れているのとは似ても似つかいない四つ打ちのハウスミュージック。もう一曲はAIにも判別不能、要するにアーカイブにない曲だった。通りに面した大きなガラス窓から、車のエンジン音が頻繁に割り込んでくるので、うまく聞き取ることができなかったのかもしれない。しかし、そのような騒音もあわせ、「ここの音」が刷り込まれている。いまでは、他所で「週プレ」や「文春」を開く度に、あの味気ないストリングスが耳に蘇る。
それぞれの店には「固有の音」がある。そこで流れている音楽のみならず、客や環境が立てる物音とあわせて醸し出される音響。
その昔、「SOB-A-MBIENT」という企画盤があった。蕎麦とアンビエントを組み合わせたその名の通り、蕎麦屋をイメージしたBGMを複数のアーティストがつくおろしたコンピレーション・アルバムである。その冒頭が、たしか神田の薮そばのおかみによる「通しことば」であった。独特のイントネーションの「いらっしゃい~」に、客の注文を厨房に通す際の「符牒」がまるで音楽のように聴こえる。
先日、筆者の営む書店に『言葉の即興演奏』なるZINEの持ち込みがあった。地下鉄の駅や公園、橋の下や商店の入り口など、街の各所で敢行したフィールドレコーディング音に混じり込んだ言葉を、そのまま書き起こし、それを詩のようにして提示した印刷物だ。レコーディングした段階では、あくまでも雑踏に近かった音声に、耳を澄まし、文字に起こすことで偶然が産み落とした詩として提示する。
『こちらは北改札口です でも、愛知県 で こちらは 北改札口です それが犯人だと』
例えばこんな具合に。
「SOB-A-MBIENT」の「通しことば」はその反対、ことばの意味を音として解釈し、環境音として提示したものだ。喫茶店やカフェに愛着を持てるのは、気の利いたBGMではなく、言葉や騒音も含めてその空間が立てる固有の物音に対してである。
京大近くの老舗喫茶「進々堂」では音楽は流れないが、天井の高い空間に響く、黒田辰秋のベンチが床をこする音がその居心地と大きく関わっている。異邦人として訪れた外国のカフェのテラス席で、環境音として耳にする無数の会話。聴こえるか聴こえないか微妙な音量で流れる退屈なイージーリスニングに交じるエンジン音。アルバイトの子に対し、営業中もコンコンと続く名物ママの説教。こういったものをフィールドレコーディングし、コンピレーションとしてリリースしてはどうだろうか。少なくとも有名DJによる選曲や「ボサ・ノヴァのJ-POPカバー」よりも、喫茶店で一服している気分を味わえるのではないか。
V.A.(2003 / Victor Entertainment)